伯備線で特急やくもを撮影してきた
特急やくもで運用されている国鉄型特急381系が間もなく引退するとのことなので、伯備線で撮影してきました。
GW期間に訪れたため7両の増結編成が運航されていました。長編成の迫力ある姿を写真に収めることができましたので、以下その様子を記録しておきます。
午前~昼過ぎ:備中川面
- 駅構内での二編成の並び
伯備線の中でも備中川面駅周辺はとりわけ撮影に向いている場所が多く存在します。当日の大半はここからの撮影となりました。
まずは目的の二編成がすれ違う様子を撮影。
- 第三高梁川橋梁
その後備中川面駅から北側へ少し歩いたところにある踏切から通常塗装のやくもを撮影。7両編成で運行されていたため迫力満点でした。
昼~昼過ぎ:井倉
その後は井倉駅周辺まで移動。駅の東側にある山を少し上ると駅周辺を見渡すことができる展望台があるため、そこからの俯瞰して風景とやくもを絡めて撮影してみました。
- カルスト山荘 展望台
午前中は雲一つない快晴でしたが、昼頃になると雲が出てきました。残念ながら国鉄特急色が通過するタイミングでちょうど雲がかかってしまいました。
雲がまだらであったので、場所によっては陽が差してました。
昼過ぎ~夕方:備中川面
再び備中川面周辺へ。午後以降順光になる場所で撮影しました。
- 第二高梁川橋梁
広角レンズを使い、鉄橋脇の河原から見上げるアングルでの撮影。天気が良かったので空の青色がとても写真映えします。
まずは113系。この車両もいつまで現役かわからないので、できる限り写真に残しておいた方がよいでしょう。
お目当てのやくも。7両であれば恐らく見切れてしまったと思います。
- 第三高梁川橋梁(西側)
午前のときと反対側からの撮影。やはりアウトカーブアングルの撮影は楽しいです。
夕方:総社~清音 ストレート
夕方に運行される国鉄特急色とスーパーやくも色を撮影するために、備中川面から総社市の方まで南下しました。
- 踏切から
日が傾き始めているため、車体に建物の影がかかっています。
国鉄特急色はスーパーやくもの約2時間後に通過しましたが、完全に影がかかってしまいました。
これにて撮影終了。丸一日撮影で動き回りクタクタになってしまいましたが、良いリフレッシュとなりました。
世界を「パノラマ」化する鉄道の車窓―W・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』について―
こんにちは。長らくブログを放置してましたが、久々に更新してみました。
今回は自分の勉強のために(大学院での研究のために)読んだ本の内容を整理したうえで、面白かった部分を皆さんに紹介したいと思います。
以下で取り上げるのはヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』です。
旧版と新版があり、僕が読んだのは旧版でもう入手困難になっているようですが、新版は今でも取り扱いがあるようなので、Amazonのリンクを貼っておきます。
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19世紀ヨーロッパにおける科学技術の発展と鉄道
19世紀では様々な科学技術の発展によって、人々の暮らしが大幅に近代化していきました。その代表として挙げられるのが、鉄道技術です。この蒸気機関で作動する乗り物によって、地理的な距離は従来と比べて大幅に短縮されました。シヴェルブシュはこの事象を端的に表す言葉として「時間と空間の抹殺」を用いています。
〔馬車をけん引する馬などの〕畜力による運動装置が疲れ切るまであくせくと働いて手に入れた自然(つまり空間的距離)が、今や新しい機械による運動装置の鉄道により、簡単に踏破されてしまい―当時よく使われていた比喩であるが―鉄道は〔弾丸のように高速で突き進む〕発射体の威力を振るって、自然を貫通するのである。時間と空間の抹殺(annihilation of time and space)とは、それまで独裁的に力を振るってきた自然空間に鉄道が侵入するさまを表現する、十九世紀初期の共通表現である。*1
そしてこの交通機関はただ人々の移動を容易にしただけでなく、近代社会における人々の営みをも大きく変化させていきます。
この著書は単なる鉄道史の記述だけを目的とはしていません。むしろ上述したような、鉄道技術が人々の営みに与えた影響はどのようなものであったか、ということに焦点を当てています。
例えば前近代的な馬車での乗り合い旅行と比較して、鉄道での旅行中には人々のコミュニケーションが忌避されていったことや、それに伴って孤独な旅の暇つぶしとしての読書が普及していったこと、そしてそれが現代における個人的な読書の習慣を定着させる一役を担ったことなどが紹介されています。
他にも鉄道が生まれたことに伴う大幅な輸送力向上によって鉄骨やガラスを多用した建築が登場したこと、鉄道駅が街にできたことに伴い百貨店が出現し、それによる商業的価値観の大幅な転換など...。
とにかく、鉄道が近代ヨーロッパの社会構造を大きく変化させたことが詳細に分析されています。ここでは全てを深堀することができませんので、もし興味がある方は実際に本を手に取ってみてください。
さて、以下では私にとって特に面白いと感じられた「パノラマ」的な知覚について紹介してみたいと思います。
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「パノラマ」とは何か
そもそも「パノラマ」とは何を指すのでしょうか?この現在でも馴染みのある名称は、もともと19世紀に登場した新しいメディアに由来します。
1800年頃、英国の画家であるロバート・バーカーが巨大な円筒空間360度に極めて写実的な風景画などの絵を巡らせるようにして設置し、その中心から観客がその絵を眺めまわすことができる新しいメディアを作成しました。この装置こそがパノラマです。
この巨大な空間に入って周囲を見渡す人間は、自分が風景画を見ているというよりもむしろ、実際にその風景がある場所に訪れたように感じたとされています。その錯覚的な作用のために、パノラマは多くの観客から娯楽メディアとして当時とても人気を博しました。いわばこの装置は、現代におけるヴァーチャルリアリティの原型とも言えるでしょう。
錯覚を生み出すために重要となるのは、観客と絵画との分断です。この重要性については、シヴェルブシュが別の研究書において以下のように分析しています。
観客と絵のあいだに広がる空間は、中空の吹き抜けになっていて、薄暗く、上と下に―おそらく黒い―布が張られていた。この空間の役目は、隔たりを感じさせないようにすること〔中略〕にあった。というのはこの空間のおかげで、絵が観客の現実世界のかなたに移され、同時に、不思議なことに観客も得に吸い寄せられる〔中略〕からである。*2
観客と絵との間には暗い吹き抜けの空間が設けられており、それによって観客が立脚する場所と絵画が展示されている場所との場所的連続性が消失します。それゆえにパノラマ絵画を眼にした観客は、自分の前にあたかも現実の世界が広がっているかのようなイリュージョンを体験するのです。
そしてこのようなパノラマ的な知覚の生成は、このパノラマというメディアの中に限ったものではありませんでした。というのもこのメディアとほぼ同時期に現れた鉄道の車窓もまた、旅行者にパノラマ的な知覚を生じさせていたからです。
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鉄道と「パノラマ」的知覚
では鉄道とパノラマとの関係性に言及する前に、産業革命以前の旅行者が、周囲の風景をどのように知覚していたかを見てみましょう。シヴェルブシュは具体的事例としてドイツの詩人であるゲーテの旅行記を取り上げています。
「朝七時フランクフルト発。ザクセンハウス山には、手入れの行き届いたたくさんのブドウ畑。霧、曇、快晴。国道は石灰石で修理。見張所の後ろに森。ロープと靴に付けたアイゼンで、太くて高いブナの木をよじ登る椎夫。ヴェルシュ人の村。ランゲン近くで岡から抜けた国道沿いに、死んだように横たわる。シュプレントリンゲン。ランゲン付近の舗道と国道で使われている玄武岩は、この平坦な台地では、かなたのフランクフルト近郊と同様に、実にあちこちで砕けざるをえない。砂地、肥沃な土地、平らな土地、多く耕作地、だが痩せて...」*3
ここでは旅行中のゲーテの目に留まったものが次々と羅列されています。シヴェルブシュが注目しているのは、この旅行記において山や森などの遠く離れた場所の様子だけでなく、ゲーテのすぐ近くにある舗装路の素材なども描写されているという点です。彼はこの点に産業革命前の旅行者の知覚の特徴が表れていると述べます。すなわち前景から遠景まで等しく知覚が行き届いているのです。
しかしシヴェルブシュによると、高速で移動できる鉄道の登場によって、この旅行者の知覚は大きく変化したとのことです。
「ヨーロッパの窓からの眺めは〔中略〕その奥行を完全に失った。それは、どこへ行っても広がっていて、いたるところで絵画的平面ばかりの、全く同じパノラマ世界の、一部に過ぎなくなっている。」*4
「鉄道は、体験できるようになった陸と海の世界を、パノラマに変様した。〔中略〕旅をすること自体が楽になり一般的なものとなったので、鉄道は旅行者の眼を外へ向けさせ、次々に移り変わる画面を提供して、旅行者に豊かな糧を与えるのだ。」*5
シヴェルブシュはこのような当時の旅行者による資料を取り上げた上で、次のように述べます。
産業革命前の時代の知覚にあった奥行きは、速度によって近くにある対象が飛び去ってしまうことで、鉄道では全く文字通り失われる。これは、産業革命前の旅の本質的な体験を構成してたあの前景の終焉を意味する。この前景越しに、昔の旅人は通り過ぎてゆく風景と関係を保っていた。彼らは自分がこの前景の一部であることを自覚していたし、この意識が彼らを風景と結びつけていたし、その風景が遥か彼方まで広がっていようとも、彼らの意識は風景の中に彼らを編みこんでいたのである。速度のために前景が解消すると、この立体感覚も旅行者から喪失する。旅行者は、遠いものも近いものも包括している「全体空間」から、抜ける。〔中略〕パノラマ的にものを見る目は、知覚される対象とはもはや同一空間に属していない。この目は、それが乗って移動する装置越しに、対象、景色その他を見ている。この装置、つまりこの装置が作り出す動きが、この目に作用し、それゆえこの目はもっぱら動きながら物を見ることしかできないのである。*6
列車は高速で移動するするため、車窓の近くにある物は一瞬のうちに通り過ぎてしまいます。その結果、高速で移動する列車は旅行者の近くにある地面や草木など、つまり前景を知覚する暇を与えません。いわば「速度が前景を消してしまう」*7のです。
つまり、鉄道旅行者にとって、ゲーテが知覚していたような生きた連続性としての旅の空間はもはや存在せず、その代わりに、鉄道の車窓は旅行者に対して景色を風景画として見なすような知覚、すなわちパノラマ的な知覚を生じさせている、とシヴェルブシュは主張するのです。
それゆえに、旅行者と旅行者が体験する旅の空間は、ちょうどパノラマの観客と絵との間に吹き抜けが設けられているようにして分断されてしまい、旅行者は窓の景色を風景画として見なしてしまいます。このことを指してシヴェルブシュは鉄道とパノラマを関連付けています。
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世界のパノラマ化
本来パノラマは絵画で現実空間を模倣したメディアであるはずです。しかし19世紀ヨーロッパの旅行者にとっては、現実空間である車窓越しの世界がパノラマに見えているため、パノラマがリアルな現実世界そのものとして立ち現れてきているという逆転現象が生じています。つまり、速度によって世界はパノラマとして再構築されると言えます。
多くの視覚文化論で論じられているように*8、人間の視覚は人間自らが生み出してきた様々なメディアによって訓練されてきました。ここで言及したパノラマ的な知覚もまたその一つと言えるでしょう。面白いのは、そのような訓練が、人々の移動を容易にする公共交通機関としての鉄道を通じてもされていたということ、つまり鉄道がある種の視覚メディアになってたということではないでしょうか。
Canon EF→SONY Eマウント変換アダプター「TCS-04」について
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マウントアダプターを買う
先日、レンズのピント調整のために、シグマの望遠レンズと唯一所持しているキャノンのカメラを一緒にメーカーに送ってしまったため、手元にある他のEFマウントのレンズがしばらく使えなくなってしまいました。
しかし、最近になってα7ⅱというソニーのミラーレス一眼を購入したこともあり、そちらでもレンズ資産を活かしたいなと思い、前から気になっていたこともあり、この機会を利用してEマウントのカメラでキャノンのEFマウントのレンズを使用することができるマウント変換アダプターを購入することにしました。
ただし選択肢が無数にあるため何を買ったらよいかわからず。しかもレビューを見てみると、どの商品にも何かしらの問題がありそう…
色々と悩んでも埒が明かなかったので、結局何となく目についたTECHARTというブランドの「TCS-04」を手に入れることとなりました。
早速開封してα7ⅱとEF70-200mm F2.8l IS Ⅱ USMをドッキングしてみましたが、もともと小ぶりなソニーのボディにこのレンズをつけるとかなりアンバランスな印象を与えます。もしSONYのボディをお持ちでこれから望遠レンズを検討している方は、バッテリーグリップを購入した方がいいでしょう。
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緒元
この商品は電子接点つきなので、キャノンのレンズのAFや絞り、手振れ補正などをSONYのボディから制御することができます。もちろんExifデータにもレンズの情報が記録されます。(私の場合は何故か誤ったレンズ名称が記録されていました。)
また、アダプターにはファンクションボタンがついており、初めて使うレンズの情報を読み取らせたり、ピントを無限遠にしたりと、ボタン一つで様々な操作ができます。
ファームウェア更新の際に使用するUSBはTypeCで、下側についています。
一方で、注意していただきたいのはEFマウントでもレンズによっては動作しない可能性があるということで、特に古いレンズなどは注意が必要です。また他の方のレビューを参照してみると、たとえ動作しても、ボディとレンズの相性によってはAF性能にかなりバラツキが出てくるようです。動作確認済みレンズは、焦点工房のサイトに一覧表が記載されているので、まずそちらを確認していただくことをお勧めします。
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実際に使ってみる
早速肝心のAF性能などを確かめるため、近所の公園で使用してみました。AFモードはコンテニュアンス(AF-C)で、エリアはゾーンAFです。なるべく小さい目標を狙ってみました。コントラストやトーンカーブなどは一切触っていません。
ファーストインプレッションとしては、非常に優秀なアダプターだと感じました。確かに大きくピントが外れているような状況では迷うこともありましたが、懸念していたような致命的なAFの性能低下はありませんでした。基本的にはキャノンのボディで使用するのとほぼ同じ感覚でAFを合わせれると思いますし、25,000円分の価値は十分にあると思います。
しかしこのマウントアダプターにもやはり不満に思うところもあり、私の場合では連写時のAFが最初の一枚目の位置で固定されてしまい、2枚目以降はピントが合いませんでした。これは、使用される方の目的によってはかなり致命的な問題となるかもしれません。ただし前述したように、やはりレンズとの相性という側面も大きく影響しているようなので、私が今回使用した70-200mm/2.8以外のレンズだと、連写時でも問題なく動作するかもしれません。私はこれ以外のレンズを保有していないので、すでにこのアダプターを購入済みで他にもレンズを使用された方がいらっしゃれば、教えていただけると嬉しいです。
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まとめ
「かもしれない」を連発してしまい頼りないレビューとなってしまいましたが、やはり社外品であるため、これは他の商品にも言えることですが、動作に関しては何かしらのリスクが伴うことは理解したうえで購入すべきだと思います。確実なAFの動作が保証された製品が欲しいというのであれば、やはり純正もしくはその他サードパーティーから発売されているEマウントレンズを手に入れるほうが確実かと思われます。
けれども、このようなリスクを承知の上で、EFマウントのレンズを持っており、そのレンズ資産を有効活用したいと考えてらっしゃる方にとっては大変魅力的な商品ではないでしょうか。
ネビル・シュート『渚にて』を読んだ。
もともと小説はあまり読むほうではなかった(というかほぼ全く読まなかった)のですが、ここ数年になって興味が湧いてきたので色々と手を出すようになりました。とは言ってもポストアポカリプスものが好きなのでそっち方面ばかりですが。
北半球で核兵器を使用した第三次世界大戦が勃発しほとんどの国が壊滅。オーストラリアをはじめとする南半球の国々はかろうじて戦火を逃れたものの、死の灰がじわじわと襲い掛かり、人類の滅亡は目前に迫る。死に直面した人々はいかにして残りの人生を過ごすのか…といった内容です。
いわゆる終末ものなのですが、希望を感じ取れるようなシーンは一切ありません。そして登場人物も生き永らうために抗うようなことはしません。最後の方になると彼らはバタバタと死んでいきます。バトルシーンなども無いので、アツい展開が好きな人にはおすすめできないかもしれません。
ものすごくゆっくりとしたテンポで物語が進行し、登場人物の心境などが非常に繊細に描かれているのが見どころかと思います。つまり死に直面した人間の生き方という哲学的な面がメインテーマとなっている小説です。
人間はいつか必ず死にますが、多くの人はそれに直接目を向けようとしません。しかし死を間近に意識しはじめると、どのようにして生き、そして死ぬべきなのかを考えるようになり、そのような経験を通して初めて生きることの喜びを実感するのかもしれません。読んでいてなんとなくハイデッガーを連想しました。
余談ですが、作者は「あの」パンジャンドラムの設計者だそうです。あんな豪快な兵器を開発する人がこんな繊細な小説を書けるのか…と読みながら驚いていました。
ブログを開設しました。
はじめまして、もしくはこんにちは。より(vigilante0809)です。突然ですが、この度ブログを開設する運びとなりました。
かねてから検討していたことでしたが、ようやく実行に移せました。
理由としては、日々の出来事についてツイッターにあれこれ書き込むだけでもいいのですが、(たとえ自己満足であっても)もう少しまとまった文章という形でより具体的な内容を公開できたらな、と考えたからです。
また、今後学業において自分の意見や考えなどのあれこれを文章にまとめて発表する機会が増えてくることが予想されるのですが、このような場所を利用して文章を書くという行為に少しでも慣れておこうという目論見もあります。
とは言え衝動的に書きたくなったという面も否めないため、三日坊主にならないかどうか極めて心配です。なるべく更新頻度を維持できるように努めたいところです。
では。