よりどりみどり

自分らしく生きる方法教えます。

「日」を"ni"って読むの「日本」以外にあったっけ?

ベルリンに留学して3か月弱が経ち、なかなか現地の生活に馴染めてきたのではないかと思う。日々の生活、授業の予習と復習に追われていたが、ようやくそれ以外のことに目を向ける余裕ができてきた。今回はちょっとしたことではあるものの、外国で生活し、異文化を学ぶ意味を改めて考えるきっかけとなった出来事について語りたい。

 

ベルリンはヨーロッパ屈指の大都市であり、様々な文化的・言語的背景をもつ人々が入り混じって生活を送っている。そのため異文化交流も非常に盛んで、大規模なものから小規模なものまで、異文化経験のワークショップが、図書館などの公共施設でよく開かれている。

 

私はしばらく前から、日本とドイツの文化交流を促進する某団体に顔を出し、そこに所属する何人かのドイツ人と仲良くなった。それがきっかけで、この団体が主催するワークショップに招待していただいた。子供向けイベント:「漫画キャラの描き方講座」。これに私は見学という形で参加した。

 

真剣にキャラクターを描く子供たち。みんなジャンプ系の作品が好きらしい。

 

大都市ベルリンでは、私が思っている以上に、人々が日本文化全体に強い関心を向けている。日本食レストランはあちこちにあるし、漫画やアニメ専門店も、ベルリン中心地に行けばそれなりの数がある。こうしたワークショップが開かれて、予約枠満員まで子供たちが参加しているのは、こうした日本文化への関心の強さを裏付けているだろう。

 

このイベントでは、"Anime"や"Manga"特有の眼や体の描き方をレクチャーを通じて、子供たちはその文化的背景や日本語を学ぶことができる。私と仲が良くなった講師の方は、私の母と大体同じくらいの年齢の女性である。彼女は東ドイツ生まれで、自由に外国へ行けない幼少期を過ごしながらも、映画やアニメの影響で日本へと強い憧れを抱き、現在ではボランティアを通じて日独文化交流を促進させる活動に参加しているそうだ。日本語初学者ではあるが、歳を重ねてからも勉学に取り組み続ける姿勢は、見習うべきものである。

 

そのため、漢字のレクチャーの話題に移ったときに、おのずと日本語ネイティブ話者である私に質問がとんできた。彼女はまず「漢字」がアルファベットとは全く異なる文字の体系であることを説明したあと、具体的な漢字の例として、「日」をホワイトボードに書いて、私にこういった。

 

「より〔Xで使用している私の仮名〕さん、この漢字の読み方は"ni"であってますよね?」

 

「に」…?私はすぐに返答できなかった。「日」という漢字を目にしてまず思い浮かぶ読み方は、私の場合「ひ」「び」「にち」辺りである。「に」と読めなくもないか…。と思いつつ、いや、そもそも「に」と読む漢字をすぐに思い出せない。

 

「はい、あってます!」あまり確信が持てないなか、とりあえず返事をした。急に質問を振られたからというのもあるが、ネイティブチェックがこうも曖昧では、いつか日独の文化交流に致命的な軋轢を生む張本人になってしまうかもしれない、と背筋が凍る思いである。だがその直後に彼女は、

 

「じゃあこの「本」という漢字は、"hon"でしたよね?」

 

と再び質問を投げかけた。ああそうか。信じがたいことに、私の頭の中から「日本」という単語が完全に頭から抜け落ちていた。日本人なのに。「日」は他でもなく「日本」で「に」と読むじゃない。

 

けれども、ここでさらに生じたのは、はたして「日本」以外に、「日」を「に」として読む読み方があるだろうか、という疑問である。このイベントが終わるまでこのことがずっと頭の中でぐるぐるしていたのだが、結局思いつかなかった。「日暮里」「日光」のように、「にっ」はそこそこあるけれど、「に」単体は多分かなりレアなのではないか。

 

 

――――――

 

 

ながながと自分の気づきを語ってきたわけだが、この経験において最も大事なのは、おそらく外国で日本語を学んでいる人たちとの交流が無く、日本で日常生活を送っているだけだと、「「日本」以外に日を「に」で読む読み方はあるのか」という疑問を抱くことなどなかっただろう、ということである。

 

日本で暮らし日本語を母国語として習得した人なら、何不自由なく日常生活で日本語を使いこなすことができる、という感覚を抱くことが少なくないだろう。学術的議論などであれば専門知識・専門語彙が問われるが、それ以外の、例えばスーパーやコンビニでの買い物、友人や家族との会話において、通常のコミュニケーションを交わすことにそれほどの不自由はないだろう。

 

その理由の一つとして、日本語話者と日本語の密接性が挙げられる。つまり、日本語という言語があまりにも生活の一部になり過ぎているので、「日本語を駆使してコミュニケーションをしている」という感覚を抱くことなく、会話を成り立たせることができるということだ。だからいちいち「日」の読み方に意識を向けることなく、言語を使いこなすことができる。

 

それに対して外国語学習では、やはり大なり小なり母国語とは異なったシンタックスや語彙を使いこなさなければならないので、外国語は「駆使するもの」になる。それは言語の使い手と言語との間に距離があることを意味する。母国語が「馴染みあるもの」であるのに対し、外国語は「よそもの」であると言い換えることもできるだろう。

 

このように考えると、「日本以外に日を「に」で読む読み方はあるのか」という疑問は、話し手と言語との間に距離が無ければ、生じ得ない疑問であるといえる。これが意味することは、私にとって距離のない「馴染みのもの」であるはずの日本語が、外国語学習、留学生活を通じて「よそもの」になりつつある、ということだ。

 

しかしこれは、私が(ドイツ語だけでなく)日本語を駆使することも不自由になったというよりも、「馴染みのもの」の文化を「よそもの」として捉えられるようになったということでもある。というのも、言語と文化が表裏一体の関係にあるからだ。

 

重要なのは、文化や言語には「よそもの」の視点からではないと捉えられないものがあるということである。これによって「馴染みあるもの」「よそもの」双方の側面から、一つの(母国の)文化を捉えることができるようになるのだ。例えば外国人との共生の問題を考えるうえで、このような双方の視点を持つことは、より客観的で多様な価値観の尊重に結び付くだろう。

 

――――――

 

留学をする意義とはなにか。外国語を学ぶため。異文化を知るため。語学力を将来のキャリアに生かすため。色々な答えがあるだろうが、私は「馴染みのもの」である母国の言語や文化を、いちど「よそもの」に変えることこそが、最も大きな意義ではないかと思う。こうした気づきを、「日本以外に日を「に」で読む読み方はあるのか」という些細な疑問から改めて得られたように思う。

 

 

 

ドイツの自動車事情を通じて異文化を体験した話

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2025年9月、交換留学のためにドイツへ訪れた。約1年間をベルリンで過ごすことになる。当然ながら日本とは言語も文化も異なるため、自身を取り巻く環境も大きく変わる。その印象の備忘録として、しばらく自分の考えを綴ろうとおもう。

 

海外へ行くとき、皆さんはどのようにして「異文化」を認識するだろうか。例えば食文化や風景の違いは最も目につきやすいし、興味を向けやすいだろう。私はこの両者であれば、どちらかというと風景に惹かれる。ただし、漫然と景色を眺めていても、具体的にどのように異なるのかを判断するのは難しい。

そこで私は、海外に行くときに、まずはその国の「自動車事情」に注目することが多い。その理由は、乗り物全般にもともと関心があるから、というのもあるが、それに加えて、交通事情は現代の都市景観の形成に欠かせない役割を担っているからだ。つまり交通事情に眼を向けれると、おのずと都市全体が見えてくるような気がするのだ。

 

今回は特に、ベルリンを走る自動車に焦点を当ててみる。主観的な判断に終始するが、詳しく目を凝らして自動車や交通事情を見てみると、意外なことに細かい違いに気づかされる。

 

  • EVがあまり走っていない

ヨーロッパの自動車といえば、電気自動車が急速に普及しているという印象を抱く人が多いかもしれない。特に少し前に、EU全体に欧州車を普及させるべく、いわゆる「EVシフト」が進んでいると、ニュースでもしばしば取り上げられていた。

ところが実際にベルリンに訪れてみると、内燃エンジン車の比率が圧倒的に高いように思われる。確かにテスラなどのEVも走っており、公共交通機関なども電気バスが使われているようだが、予想していたほどではない。むしろハイブリッド車の数に関しては、日本の方が多いように感じた。

 

  • 日本車が結構多い

ドイツといえば、VWメルセデスベンツアウディBMWをはじめとして、多くの自動車メーカを抱える自動車大国である。当然ながら、ドイツでもそれらメーカーの自動車は多く走っている。

しかし、日本車が少なからぬ存在感を放っていることに驚かされた。体感的に、1〜2割ほどの自家用車が、日本車である。メーカーごとに見ていくと、やはりトヨタ車が多めだが、興味深いことにその他のどのメーカー(日産、ホンダ、スズキ、三菱、マツダ)も、ある程度のシェアを維持しているように思われる。

特にタクシーにはプリウスαカローラツーリングなどのトヨタ車がかなり多く採用されている。

 

  • 凹み、泥汚れ

例えば駐車の際ブロック塀にバンパーをぶつけて、凹んでしまったとする。その際日本であれば、たとえ走行に支障のないキズであったとしても、直ちに修繕する人が多いのではないだろうか。

それに対してベルリンでは、多少のキズであればそのまま放置して運転している人が多いように思われる。古い車だけではなく、比較的新しい車種、それどころか高級車であっても、その傾向が見られる。また、泥汚れや枯葉が付着したままでも気にせず運転している人も多い。

 

  • 年式が古い車

日本であれば、20年以上前に発売された車種を見かけることはあまり無いのではないか。年式が古くなれば、自動車税もかかり、燃費の面でも不利になる。しかしベルリンでは、その年式の車でもまだまだ現役で走っている。例えば初代ヴィッツ、フィット、マーチといった、日本でもなかなか見かけなくなってしまった車種は、日本よりも台数が多いようにすら思える。

旧東ドイツが国民車として製造していたトラバント。オスタルギー(旧東独時代への憧憬)を背景に、現在でも人気がある。日本の昭和レトロブームを彷彿とさせる。



 

 

ドイツでは長いあいだ使用し続けて、キズや汚れが目立つようになっても、同じ車に乗り続ける人が比較的多いように思われる。そのため、EVがあまり走っていないように見えるのは、不人気ゆえというよりも、そもそも車を早いサイクルで買い替える人があまりいないためかもしれない。

 

一通り自動車を見てきて思うのは、ドイツでは年式や外観といった要素に気を遣うよりも、まず「移動手段」としての自動車に大きな価値が置かれているということである。つまり生活必需品、あるいは消耗品として車という道具が社会に受け入れられているのだ。それに対して日本では、車は移動手段であると同時に、車のオーナー自身の「写し身」としての側面があるように思われる。私自身もそうだが、車がキズついたり汚されたりすることには大きな抵抗感を覚えるだろう。個人的には、まるで自分身体が傷ついたり汚されたりするような感覚に近いように思う。

 

西洋では昔から、心身二元論、すなわち身体と魂は別のものであるという価値観が浸透している。それに対して東洋では、身体と精神は切り離すことのできないという考えがある。もしかすると、身体と精神の関係性は、人間と自動車との関係性にも拡張できるかもしれない。

つまり西洋では自動車が人間とは異なる客体=道具と見なされているのに対して、東洋、とくに日本では、自動車がオーナーの心身の一部として理解されているのではないだろうか。だからこそ日本では自動車のキズや汚れをなるべくつけないように心掛けているのではないだろうか。

人間がこれまで培ってきた精神的/身体的土壌の違いは、自動車をはじめとした、交通事情にも大いに映し出されているように感じられる。それは世界を理解しようとする眼差しの違いそのものではないだろうか。そしてそのような差異のなかでも、ドイツをはじめとして世界中で日本車が使用されているというのは誇らしく思う。